お知らせ

本山 蓮永寺

住所静岡県静岡市葵区沓谷2-7-1

TEL054-245-1536

山号貞松山

沿革当山の開創と日持上人
 抑も我が貞松山・蓮永寺は、宗祖日蓮大聖人六上足の一人、蓮華阿闍梨・日持上人の開創する所でありまして、開基の大檀那は松野氏、弘安六年の建立であります。
 松野氏は駿州・庵原郡・松野村の邑主で、宗祖晩年の帰依者でありましたが、非常な篤信家でありまして、身延の大聖人に始終御供養を申し上げ、現在の御遺文録の中に、松野氏へ与へられた御消息が十数篇載せられてあります。
 日持上人は、この松野村の生れとばかりで、今までの研究では俗姓がはつきり判つて居りませんが、或る説には、松野六郎左衝門人道の子、松野六郎左衝門の弟となつて居りますし、松野氏の立てた蓮永寺の開山となつて居る所を見ますれば、何れにしても、松野氏の一族ではなかつたかと思ひます。
 上人は生れながら聡明にして、幼少の時すでに早く、経書から諸氏百家の書を学び一を聞いて万を察するといふ俊敏さでありましたが、或る時、仏書を見てその義理の深いことに驚き、更に進んで仏教の玄理を究めようと、断然出家して叡山に登りました。
 然るところ、叡山に於て研学中、慈覚・智証二大師の「理同事勝」の説に対して大なる疑問を懐きました。「理同事勝」とは、法華経と大日経と、「理」は同じであるが、「事相」は大日経の方が勝れてゐるといふ説であります。
 そこで上人は、「天台の摩訶止観には、自らを疑ひ、師を疑ひ、法を疑ふことを行道の三障として深く誠めてあるが、いま自分は、先師の説に対して解き難き疑問を懐くに至つた。これ大なる行道の障礎であって、学問成就のほども覚束ない。この上は唯、仏祖の冥助を仰ぐより外に道はない」と考へ、叡山を降つて国に帰り、学を廃して行を勤め、ひたすらに仏祖の冥助を祈りました。
 すると、誠心の感応する所か、或る時、岩本実相寺の智海法印から日蓮聖人の事を聞いたので、「これこそ我が疑問を解決してくれる人である」と大いに喜び、さっそく鎌倉の松葉ケ谷を訪れて疑問を質しますと、果して難解の疑問は忽ちに氷解しましたので、こゝに改めて大聖人の御弟子となり、名を「蓮華阿闍梨・日持」と頂いたのでありました。  これは文永七年、大聖人が寵口法難の前年で、上人が二十一歳の時でありました。
 大聖人に接する前、すでに深い学問を積み、偶々その学問に疑問を懐いて、大聖人に質し、その解決を得たところから門下になつた者は、大聖人の御門下多しといえども、六老僧の第一位日昭上人と、我が日持上人だけであります。
 この一事によっても、いかに上人が、俊秀の人物であったかということが判るでしょう。

海外伝道
 しかも上人は、独り内外の学に通じて居られたばかりでなく、和歌に巧みにして文章に秀で、そのうへ書道に達して一居られましたので、常に大聖人の代筆をなされたと言はれ、またかの有名な「持法華問答抄」は上人の作で、大聖人の御允可を得たものだと伝へられて居ります。
 我が蓮永寺を建てましたのは、前記の通り弘安六年、即ち大聖人御入滅の翌年で、その後上人は、蓮永寺を中心として駿河地方に教線を拡大して居られましたが、常に念頭を去らなかつたことは、海外布教と言ふことでありました。
 「我がこの法華経は広宣流布を目的とするものである。然るに現在は、日本国以外には何処の国にも弘まって居らない。もちろん宗祖出現以来、日もまだ浅い事であるから、日本国内とて悉く法華経に帰したわけではないが、然し、国内の布教はこの日持が居らなくとも、日昭以下、法将雲の如くであるから、それ等の人々に依て充分である。自分はこれから宗祖の大理想を体し、海外へ渡って広宣流布の第一歩を踏み出さう」
 かう考へて上人は、、水仁二年の九月、即ち、人宗祖の御正当より一月早く十三回忌の御法要をすませ、御正当の十月には身延の祖廟に詣でて我が志を告げ、翌永仁三年の正月朔日、弟子檀方の留むるのを振払ひ、供をと願ふのも退け、単身飄然と松野を去って弘通の旅に上ったのでありました。
 そして、行く行く奥州地方を巡化し、海を渡つて蝦夷地に入り、更に樺太から満洲へ行つたと言はれ、最近、断碑や口碑の発見研究に依れば、かなりの教績を挙げ、元の仁宗皇帝の帰依を得、晩年哥林に至って寂したと言はれて居りますが、何れにしても明瞭な事実は判らず、終焉の場所および年月日等も知れて居りません。
 そこで、当山では昔から、御発足になつた永仁三年の一月一日を以て御命日と定めて居ります。
 仏教は従来、支那・朝鮮等から来たもので、日本僧侶で法を求むる為に海を渡つたものは決して少くありませんが、法を弘むる為に海外へ進出したのは、日本仏教始まって以来、実に上人がその嚆矢であります。
  ただ、よき後継者を得ず、上人が折角苦心開教した跡を空しくしてしまったといふ事は、呉々も遺憾な事だと存じます。

当山の移転
 当山は前記の通り、松野氏の発願に依て「松野村」に建てられたのでありますが、現在の「沓谷」に移つたのは、それから約三百年後、元和年間のことで、養珠夫人の外護に依つたものでありました。
 養珠夫人は徳川家摩の側室で、紀伊頼宣・水戸頼房の生母でありますが、熱心な法華経の信者で、特に身延日遠上人の帰依者でありました。
 日遠上人が慶長法難(即ち、常楽院日経上人が浄土宗の廓山等と江戸城で問答をすることになつて居つたその前の晩、敵の差向けた暴徒の襲撃に遭つて瀕死の重傷を負ひ、問答不能に陥ったので延期を願ったところ、家康は頑として聴き容れず、日経上人師弟を戸板に乗せて城中に運び、苦悩呻吟して口もきけぬ瀕死の重態者に問答をしかけさせ、返事のないのは負けだとして堕負と定め、無理に怠状を書かせようとしたが書かなかつた所から、遂にこれを京都六条河原で耳?そぎの惨刑に処した事件)に関聯して同じく強硬の態度をとり、家康の注文通り「法華経には念仏無間の証文なし」といふ一札を書かないばかりか、進んで問答を要求したので家摩の怒りを買ひ、遂に安倍川原で磔刑にされやうとした時、養珠夫人が殉死の覚悟を定め、身を以てこれを救つたことは有名な話でありますが、この事が端なくも 後陽成天皇の叡聞に達し、忝くも、養珠夫人は 陛下から「南無妙法蓮華経」 の御染筆を項戴いたしました。その御宸筆は、当山の重宝として大切に保存されてあります。
 養珠夫人については、語るべき事は多々ありますが、こゝにはすべて略すことゝして、その後、元和年間、養珠夫人の発願として、当山を駿府城の鎮護とすべく、松野から現在の沓谷に移し、日乾・日遠の両上人を迎へて寺観を改めたのであります。
 まことに、松野氏は開創の大檀越であり、養珠夫人は中興の大檀那といふべきであります。
 そして、日持上人は海外布教の先覚者であり、日遠上人は宗門中興の先師でありまして、当山は実に海外伝道の根本道場であり、宗門に於ける由緒ふかい名刹であります。
 因に、養珠夫人は、上総国・勝浦の城主、正木左近太夫康長の女で、勝浦城没落後伊豆の蔭山氏広の養女となり、十七歳の時に家康の側室となつて、承応二年八月二十一日、七十七歳の長寿を以て世を去りました。

建築物
 第一に、十二間四面の本堂、次に客殿等、何れも唐破風造りであります。その他、大小の書院・庫裡・大台所等、十数棟あります。

名家の墓所
 勝安房家代々の墓
 佐久間象山先生室、俊子女史の墓
 満洲首山堡の戦死者、関谷大佐の墓
 軍神・橘中佐の墓

●切抜帖「静岡新聞」より
 お万の方は家康の二人の正室、築山御前と旭御前それに十五人の愛妾という数多い婦人関係の中では出色の女性であった。出自については諸説があるが小田原の北条氏に仕えた正木邦時のむすめで、天正十八年(一五九〇)秀吉に攻められて北条氏が滅びた後、父邦時は伊豆下狩野の加殿の妙国寺に蟄居していたが間もなくなくなり、母はお万を連れて伊豆河津の笹原城主蔭山氏に再縁したので、蔭山氏の養女として家康に仕えた。そして家康の六十一歳、六十二歳のとき、お万は二十七、八歳で頼宣・頼房の二人の男の子を、しかも年児で生んでいる。家康にすれば六十歳を過ぎての男の子であり、かわゆくてたまらなかったであろう。最後の命取りの発病となった最後の田中城(藤枝)の鷹狩りにも連れて行っているし、御三家の紀伊と水戸をついだのもこの二人である。お万の方も聡明でまた美しい女性であったらしい。自分の化粧料を節約して頼宣のために家臣を養ったという話も伝えられているし、容姿については「お万髪の毛、七尋八尋、三つ繋げば江戸までとどく、牛につけても十駄ある」とさえいわれている。元和二年(一六一六) 四月十七日、家康がなくなると、二十日には駿府寺町の感応寺で髪を下ろし「養珠院」と号した。家康の三回忌が蓮永寺で営まれたとき、養珠院は自分が家康から拝領していた器物の類をこの寺に寄進した。県の文化財に指定せられている文台と硯箱は金の梨地に岩の高蒔絵を施し、ところどころに黄金の粒をはめ込んだ豪華なもので、桃山漆器を代表する工芸品であり、その他に陣中の文台、狩野永徳の描いた団扇、銀製の茶湯道具、家康や秀忠から頼宣・頼房へあてた端午、重陽、歳暮、年頭、七夕などの儀礼文書などがある。その古文書の中に、当時は貴重品であった「みかん」の贈答に関するものがある。(三八・九・二二)

日持上人の海外渡航と宣化出土品
 わが日持上人の海外伝道に関する考証の中では、中里右吉郎氏による『日持上人の海外踏破事蹟』なる一書が有名である。本書は現地を実地調査しての記録であるが、その裏附が充分でないというので、問題を今後に残したもの、因みに、この書は大正十五年に当山から出版されたものであり、時の山主・丹沢日京師の序文がついている。真偽はともかく、この一書が各方面に与えた影響は頗る大きいといわねばならぬ。
 次に昭和二十六年、上人ゆかりの青森・法嶺院から刊行された影山尭雄師の『日持上人伝』がある。小冊子ながら前記の説をも詳しく紹介しているし、よくまとまった読み易い資料でもあるので、是非とも一読を奨めて置きたい。
 その後、北京在住の岩田秀則氏が戦後に内地へ持ち帰った日持上人の遺品がある。これは宣化という町から発見された数点の出土品であるが、この資料を中心にして、前嶋信次氏が昭和三十二年に発表された「日持上人の大陸渡航について」は画期的な論文である。考証が甚だ学問的であるばかりでなく、綿密周到な研究が読む人の共感を呼ぶ上に、何よりも揃った証拠品の数々が見事な裏附となっている。この論説は三田史学会発行の『史学』(第二十九巻・第四号より第三十巻・第二号まで)に三回に亘って連載されたものである。
 事の起りは昭和十一年、岩田氏が或る人から鍍銀の盒を譲り受けたところ三枚の文書が発見された。麝香鹿の皮で裏打されたもので、それは日蓮聖人の直筆首題と日持上人の添書及び詩文などであった。
同氏は更に仏像・経文・香炉・香盒・袱紗などの十数点をも手に入れることができた。しかもその出処は、北京の西北方・宣化の町の古寺であった。
 老僧から聞いた伝説では、昔ひとりの高僧がこの寺に住んでいたが、やがて天寿がつきて坐ったまゝ従容として遷化した。信徒が遺骸を荼毘に附したところ、紅蓮の炎の中で、すっくと立ち上るのが見えたという。人々は誰いうとなく「立化祖師」と呼んで、その不思議を語り伝えた。寺の名前もこゝから来たものだという。岩田氏が苦心して集めた数々の品が伝説主なものと判った今日、この立化祖師こそ紛れもないわが日持上人であると、岩田氏も前嶋氏も信じて居られるようである。
 日持上人が稀代の文筆家であったことは広く知られているが、漢詩をも作られたというのは宣化出土品によって初めて知らされたことで、持師に対する認識を新たにするものである。
 最初の詩は駿州松野の寺を門出した時のもので、異域伝道への抱負が力強く表現されて居り、添書によると永仁乙未元旦辰上刻とあるから、元日の朝、八時から九時頃までの間に、蓮永寺を出立されたものらしい。
 次の詩は永仁辛丑秋九月とあるが、日本では四年前に正安と改元されていて、持師はそれを知らずにまだ永仁の年号を使用しているところなど、交通不便で互いに消息を絶っていた当時の事情をよく物語るものであろう。上人はこの年、五十二歳。
 更にもう一つの詩は、宗祖大聖人の御遺影を描かれた裏に記されていたもので、上人が旅に病んで、師と共に郷里へ両親を訪ねた姿を夢に見たことを詠じている。客愁切々と胸に迫るものがあるが、また次の如く記されている。
 「うつつかや、はたまぼろしか、いずれともわかたねど、師の君に従いまつりて、駿河なる松野の里に、ちちははを訪ねまいらせしおのが姿をば見つ。とつくにのまちに病みふし、二十年のいにしえを夢みては、したわしさ堪うべくもなく、涙はしとどながれ、衣の柚をうるおせり」
 短かい御文章ながら、流石に格調の高い名文であって、容易に偽作できるようなものではない。今後この種の研究が機縁となって、日持上人の事蹟が広く顕彰されることを望むものである。

寺宝 宗祖御真骨
後陽成天皇御御宸筆首題 一幅
宗祖御消息断片 六種
伝日持上人御本尊 二種
伝日持上人要文断片 一
伝伝教大師・古筆断片 一
伝白河院御筆妙経写経断片 一
養珠院御消息文 二
養珠院所持文台硯箱 一
日乾上人棟札 一
日乾上人御本尊 十一
日速上人御本尊 七
日重上人御本尊 一
南龍公筆円頓章 一
光圀公書状 一
主信筆三幅対 三
光貞筆文殊・普賢・観音三幅対 三
幕末三舟筆首題三幅対 三
 上は宗宝・准宗宝に登録されたうち、重要なもの数種を挙げたのみで、その他、重・乾・遠三師の消息文、古文書、画像、古写本、古什器等、枚挙に遑ないほどであります。
PAGE TOP