お知らせ

本山 久遠寺

住所静岡県富士宮市小泉1649

TEL0544-26-3408

山号富士山

沿革開創
後醍醐天皇の御代、建武元年〔1344)正月、日蓮聖人の法孫・宰相阿闍梨日郷上人によって日興上人の遺志を鍵ぎ本門戒壇一連の道場がこの地に開かれた。当所は富士の裾野でも稍々小高い地域に当つていて、日蓮聖人在世中より日興上人はこの土地を「小泉村は仏法有縁の地」と言われ嘱望し、弘長年間より開教に努められ小泉法華講ができていた。
開山 日郷上人
 永仁元年(1293)八月十五日、越後の国 土岐源氏の嫡流・太田持氏の五男として生まれた。延慶三牛(1310)十八歳のとき日目上人の門に入った。その後は大石寺の日目、本門寺の日興両上人の間を常に往復して勉学に励まれ、得度二年目の正和元年(1312)僅か二十歳の時興師の命により北山大久保に本妙寺を創建した。「久遠寺創立緯起」にも「日郷上人、最初建立の寺なり」と明記されており如何に天稟の資質を具えておられたかがわかる。後に、建武二年(1335)七月、二十七歳の時安房・上総に弘教せられ保田吉浜の豪族・笹生左衛門左尉を教化して法華堂を創立、妙本寺として発展する。尚、保田の妙本寺と小泉の久遠寺は、両山一寺の法脈として歴代の上人がその双方を監した。

創立
元亨四年(1324)十二月に、目師は興師から称徳木尊を賜り、これを郷師に譲って法統相続のことも興師から許されていたので問題はない筈であったが、天奏より戻った郷師が大石寺の支配を委嘱されたことを宣言すると、同門の日道師が真っ向から反対した。この係争は長い間続いたようであるが正慶元年(1332)に大檀那・南条時光が世を去り、間もなく興目両師が相次いで遷化され、関係者が皆、故人となってしまうと道師の方が郷師よりも十年も年長で、しかも郷師は蓮蔵坊の一グループを支配するに過ぎなかった為、大勢は郷師に利あらずと道師の方に傾いていった。正慶二年(1333)日興・日日両師が郷師に遺嘱した本尊と御影尊をまず佐野氏の館に入れ奉り、爰に越年して翌く、建武元年(1334)正月に小泉に遷座し、もと法華寺と言っていたのを久遠寺と改称した。

沿革
天文十八年(1549)十四世・日我上人の時に今川氏真より朱印下附、以来将軍が替わるごとに必ず御朱印が下されている。元和八年(1622)に御影堂が建立される。寛政元年(1789)十一代将軍のとき、松平紀伊守を通じて国土安穏の祈祷を仰せつけられ、三月二日より十日までの間壽量品三百巻を読誦奉行している。記録によれば毎年正月六日、登城総礼の席に列し、且つ将軍の葬祭等には納経拝礼の儀についた。宝歴十一年、宝永十年、安永八年、天明六年、嘉永六年などの例がある。

回禄の厄
 当山は頻々と火炎に遭っているようで、他寺院にくらベでその回数が些か多い。天文六年に兵火で全焼、二十一世・日有師のとき木堂・天王堂が焼失し、次の日重師の代に塔中が全焼している。天明五年には寺領の民家が多く焼けているが、天保六年、四十六世・日諦師の時本堂・書院・塔中が全焼、明治元年四月、四十九世・日英師の代には客殿・書院・大庫裡・長屋門・玄間など五棟が焼失、大庫裡は同年六月直ちに再建したが、客殿は昭和二十七年に完成した。八十五年目のことである。尚、明胎十三年十一月九日、五十一世・日任師の代、小学校開校祝いの花火の災禍で本堂が焼け落ち、十七年に次代日霊師が上野・東光寺の本堂を譲り受けて仮本堂としたのが、現在も猶残っている。(山門の正面)
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