お知らせ

本山 本覚寺

住所静岡県静岡市駿河区池田1379

TEL054-262-3478

山号青龍山

寺院情報寺宝
一、宗祖日蓮聖人御真筆本尊 一幅
一、宗祖日蓮聖人御真筆遺文 一軸
一、開山日位上人筆御曼荼羅本尊 一軸
一、日位上人筆・宗祖御送葬日記、御番帳次第 一冊
一、後柏原院御宸筆和歌 一葉
一、当山興起古書 一冊
一、六牙潮師筆・本仏堂記 一巻
一、養珠院お万の方寄進・釈迦牟尼仏立像 一体
一、緋紋白永代着用書、網代乗輿及び寄附書 一葉
一、古年中行事 一冊
一、本覚寺末寺掟 一冊
一、慶長4年本覚寺本院支院検地帳 一冊
一、本覚寺由来 一冊
一、旧寺領朱印状 慶安元年(1648)徳川家光代から万延元年(1860)まで 九通
一、遠師筆・法華経大意 一冊
一、悲田訴訟に関するもの 一幅
 叙上の如く、宗宝・准宗宝のはかに、古文書およそ七十点が保蔵されて、例年4月23日の開山会には展覧しております。
沿革当山の開創
 当山は日蓮大聖人の御門下の中老僧・治部公少輔阿闍梨・日位上人の創め給うた寺で、もとを尋ねれば、かつて真言宗の古刹であったといわれております。
 日位上人は正嘉元年(1257)1月1日の御誕辰で、今の富士郡加島に生れた方でありますが、その御両親については詳しいことが分っておりません。ただ、祖母にあたる妙位日禅尼に養育されたということだけは確かのようであります。俗姓は南条氏で、北条九代の一族といわれており、上人の家系が宗祖日蓮大聖人の直檀、すなわち上野殿といわれた南条時光公に属していることを知り得るのみであります。
 上人は初め六老僧の日持上人によって出家の道に入ったお方で、後になって宗祖に直参してよくお仕えいたしました。祖母の妙位日禅尼というのがきわめて篤信の方で、伊東に流罪中の大聖人を訪れたときには、当時まだ五歳であった日位上人を伴なわれていますし、また宗祖の身延在山中には、しばしば登詣して、米・野菜などの供物を贈られたりなどしておられます。
 伊豆での御対面が大聖人へお目見得した初めであったかと思われますが、宗祖としては相つぐ御法難の渦中にあって、まだ幼少の上人を養育されることなどは思いもよらぬことだったでしょうから、その後の上人については、日持上人がよく面倒を見られたもののようであります。
 宗祖大聖人は日禅尼の篤い志に感じて、建治3年(1277)7月13日、『盂蘭盆御書』と『十界曼荼羅己心本覚本尊(一幅)』を授与せられました。この本尊こそは無始本有己心所具の本覚法身如来にして、これ妙位尼公・朝暮不退の唱題に備うる所以なりとして勧信授与せられたもので、この本尊に因んで当山は「本覚寺」と名づけられたということであります。

開山日位上人
 日位上人は中老僧の中でも絶えず宗祖の膝下にお仕えしていた人で、後年、身延山番帳にも配せられているところから見て、きわめて側近の直弟子であったことが知られます。祖母御前とはかり大聖人の七回忌を終えた上人は、この年に祖廟輪番の制が解かれたためもあってか、岩淵の中之郷に小庵を結んで、法華弘通の道場とせられました。時に正応元年(1288)にして、上人はこのとき32歳。この所にとどまること十年に及びましたが、後にこの庵室が等覚寺となって今日に至っております。
 さて、上人は永仁6年(1294)42歳のとき、府中・宮が崎に寺を移して、布教することさらに十年。しかし、その境域が狭く、道場として発展するのに不適当でありましたので、徳治2年(1307)に至り、時の領主から有度山の麓、池田の郷を譲り受けて、翌くる徳治3年(1308)9月13日に当山の基いを開きました。上人はこのとき51歳になられております。
かくて池田に居住伝道すること12年、この間に各地を遊説して本化の弘教に務められましたが、現在は隣接の清水市に属している村松というところに天台宗の峨岳寺と称する寺があり、寺主・慈証尊者と法義を戦わしてこれを帰伏改宗せしめております。上人は村松にゆき、数年にしてまた池田へ帰られました。この峨岳寺というのが今日の海長寺であり、改宗した初めは海上寺と称しておりましたが、山号を村松山から龍水山と改めたことについては、池田の青龍山となにか関係があるのかも知れません。
 上人はこのように教線を東に伸ばされたのですけれども、この寺は法弟の日賢上人に譲られ、池田に帰って文保2年(1318)4月23日、世寿62歳で入寂遊ばされました。
 なお、当山二世の日厳上人はその弟子にあたる方で、90余歳という長寿で遷化されておりますが、この人は関東管領・上杉頼重の子供で、また将軍・足利尊氏の外叔父でもありました。しかも、肉身の兄でもある日静上人という方が、鎌倉にあった本圀寺を尊氏の庇護で京都へ移したときに、当山の什宝であった宗祖の『孟蘭盆御書』を、京都へ持ち去られたということであります。

当山の変遷
 その後、徳川の治世を迎えてからは、代々の将軍からいくたびか朱印状を受けましたので、法運はようやく盛んとなり、かつては山内に八箇坊を擁したこともありますが当寺の記録によると、坊の名称については、身延山の諸坊と同一のものが散見していますところから、かつて「駿河の身延」と謳われたことも、まことに故あるかなと申さねばなりません。
 その頃の貫首は10万右の格式をもち、右大臣・西園寺公より宗門最高の袈裟法衣・永代着用の許しを得ていましたし、また大名と同じ輿を使用することができ、これは今もなお、当山に什宝として保存されているものであります。
 明治の維新に際しては、寺領奉還を余儀なくされましたので寺運も振わず、たまたま明治2年(1873)、当山に寄宿していた徳川家の浪人のため失火の厄にあい、総門・本堂・本仏堂・金毘羅宮を残して、諸堂をことごとく焼失してしまいました。そこで翌3年、さらに4年と続いて、位牌堂・庫裡などを築造、さらに総門をもとの二王門跡に移し、また書院・宝蔵・倉庸を建てましたが、明治41年(1908)には鐘楼を再建、大正10年(1921)に参道を創設・拡張し、市の道路とし、昭和62年客殿の建設を成し遂げました。
 日蓮宗門近代の高僧・杉田日布上人(元首相石橋湛山氏の父)は、明治27年(1894)から大正13年(1924)までの30年間、当山の住職(第48世)として宗門の要職を歴任し、晩年は身延山第81世法主、日蓮宗管長など最高の地位に就いておられます。

境内諸堂
 本堂の内部は鎌倉時代のままでありますが、外部は文政元年(1818)すなわち江戸時代のもので、現在はさらに銅板葺となり、旧観を改めました。
 本仏堂は元亨元年(1321)南北朝時代のもので、久能に近い高松の海中より出現した木像の釈迦牟尼如来(伝、春日の作)のほか 子育鬼子母神、十羅刹女および行学院日朝上人(身延山11世)の木像をも安置しております。
 金毘羅堂は、亨保5年(1720)金毘羅明王を奉祀したもので、位牌堂は、明治4年(1875)に久能山の護摩堂を移して建立されたものです。また朝暮に時を報ずる鐘楼は前記の如く明治の末に建造されて、境域に一段と美観を添えました。玄関・客間はそれより早く、14年(1885)の建築であり、書院は25年(1896)に建造され、客殿は前述のように昭和62年(1987)に建設されました。
 宝蔵には、養珠院お万の方が寄進された見事な釈迦牟尼仏の立像と、毘沙門天の立像、ならびに鬼子母神像が安置されております。

地域と墓所
 当山は有度山麓の丘陵にあり、静岡市第5号風致地区の指定を受け、老樹繁茂して森厳、且つ鳥類嬉々としてさえずり、限下に静岡市街の眺望を収め、四時の風光極めて明媚、境内には樹齢800年を超える老樟2本が枝をひろげております。
 その他、境内には閑山日位尊者及び妙位日禅尼の墓所があるほか、遠州高天神城を守った勇士・岡部丹波及び孕石主水の墓、また侠客で名高い安東の文吉を葬った墓所などがあります。
行事1月1日 元旦会
1月10日 金毘羅宮祭典
2月節分日 節分会
2月15日 釈尊御涅槃会
2月16日 宗祖御降誕会
3月 春季彼岸会
4月8日 釈尊御降誕会
4月23日 開山会
4月28日 開宗会
8月16日 孟蘭盆会・寺施餓鬼
9月12日 龍口法難会
9月 秋季彼岸会
11月2~3日 御会式

毎月1日・15日 信行会
毎月10日 金毘羅宮縁日
十二日講・二十三日講
PAGE TOP