本能寺
住所静岡県静岡市清水区村松1-4-80
TEL054-334-1782
山号東光山
沿革 | 「東光山本能寺の縁起」 東光山本能寺は正受院日東(しょうじゅいんにっとう)上人により永正6(1509)年11月23日に創立された。 日東上人は本山・本覚寺(静岡市駿河区池田)の第9世貫首であったが、或るとき霊夢、すなわち池田から真東の地に光物を夢み、自ら有度山を踏み分け踏み越え、穏やかな海浜に出、洞に安置されていた虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を拝し、光物の存在を確認した。 日東上人は、この風光明媚でかつ霊夢明示のこの地を布教の拠点として定め、寺号を「本能寺」として十二年間在山し、大永元(1521)年7月5日に遷化した。山号は光物の由来を以て「東光山」と称している。 なお、寺号の「本能寺」とは、「本門能化之寺(ほんもんのうけのてら)」の略称である。「本門」は法華経、「能化」は佛、すなわち法華経をお説きになる久遠のお釈迦さまがいらっしゃるお寺を意味する。したがって、純粋法華の教えを説く日蓮宗の寺院にのみ名づけられるのである。「本能寺の変」で有名な京都・本能寺も日蓮宗(法華宗)の寺院である。 〈文献〉影山堯雄編『新編 日蓮宗年表』日蓮宗宗務院、1989年発行 「永正六年十一月二十三日 駿州池田本覚寺日東、村松東光山本能寺を創す(過帳)」(145頁) 「妙正堂の縁起」 山門を入って正面に「妙正堂」がある。この妙正堂は、本能寺の鎮守である『妙正大善神(みょうしょうだいぜんじん)』を祀る。妙正大善神には、疱瘡(天然痘)から子どもを守護し、寿命育成と器量円満の霊験がある。 この妙正大善神は、甲州武田氏の重臣・穴山梅雪(信君)(1541~1582)の息女を神格化した善神と伝えられる。梅雪息女は天正3(1575)年12月1日に疱瘡で若くして亡くなったが、臨終に際して「我は疱瘡で苦しむ人々を守護するであろう」と遺言し、爾来安産や子育ての神として信仰されるようになった。 梅雪息女を供養するために建立された身延・延壽坊には墓所があり、墓碑からは『延壽院殿妙正日厳大姉(えんじゅいんでんみょうしょうにちごんだいし)』(身延山久遠寺第15世・寶蔵院日叙上人授与)の法号が確認できる。神号の「妙正」は、まさにこの法号に由来するものである。妙正大善神を勧請するのは本能寺と延壽坊のみであるが、どのような経緯で本能寺に勧請されたのかは詳らかではない。しかし、武田氏の駿河領有期に穴山梅雪が江尻城主として清水を治めていたこととの関連は容易に想像がつくであろう。 毎年4月3日は妙正大善神の縁日であり、法要にあわせて古雛人形のお焚き上げ供養が修せられる。これは、妙正大善神が子どもの守り神であることに因んで行われるものであり、多くの人々が参詣する。 「山門の由来」 本能寺の山門は、甲州武田二十四将の一人であった今福氏の屋敷門と伝えられている。山門の「蛙股(かえるまた)」に今福氏の家紋「剣酢漿草(けんかたばみ)」が彫刻されており、同氏に由来する紋章であることがわかる。このような様式をもった門は、清水区内では他にみられない。屋根は、当初、茅葺であったが、明治期に瓦葺としている。 「本能寺の竹藪と次郎長」 戦前期まで本能寺境内北東隅(現在の永代供養塔周囲)に孟宗竹の竹林があり、古老の口碑によれば、若かりし頃の博打うちの次郎長は、しばしば勝負に負けて本能寺の竹藪に逃げ込んでいたという。 |
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